アホみたいな文章ばかり書いてないで少しは思考の整理をしよう。

 一冊の本を繰り返し読むのとたくさんの本を読み継ぐのと、どちらがいいか。
 究極的にはどちらでもいい。
 ただそれぞれにしかない良さがある。
 一冊の本を繰り返し読む場合、著者の視座を深く把握することができるだろう。ある一つの、モノを見る際の態度というものを、かつ、自分の視座とは異なる態度を、深く識ることができる。これはとても有益なことだ。また、本の各所における力の入れ具合の違いについても、読むごとに気がつかされるだろう。ある視座において、何が基本であり、何が応用であり、何が瑣末であり、どれとどれに連関があるのかを、他人の視点を借りながら把握することができる。とても楽しいことだ。
 翻って異なる著者による多数の本を読み継ぐ場合。読んでいるとどの本にも必ず出てくること、いつも決まって言及されることに気がつかされるだろう。それこそあるテーマにおける基本であり、かつ重要な要点であるとわかるだろう。それでいて、人によって態度が違うことにも気が付かされるだろう。AとB、そしてCやDでは言っていることが微妙に違い、最終的な結論や提示される方向性の異なる場合があるだろう。自分にとって親和性があるものは異なり、自分の辿るべき道筋も自ずとわからされるだろう。

 なんだこの高校生の日記みてぇな文章は。
 クソかよ。
 つーかマジで高校生の頃の日記まんまじゃねぇの。
 まぁいいんだけど。

 最近、中国拳法を習い出して、それなりに楽しいのだけれど、見聞きしたことやようつべやネットで調べていたら、拳種が異なっても似ているように見受けられる部分がかなり多いのではと思いはじめてきた。根や幹の部分は想像していたよりもかなり類似しているのかもしれない。それでいて明確に異なる部分もあるわけで、そういうところがある拳種の固有の特徴となるのだろうか。いや、違うところこそ根や幹と言うべきなのかもしれず、言葉が難しい。
 まぁ、最も似通っている部分は、動きというより、まず初心者は基本功を通してある程度の功夫を積まなければ話にならないということだろうか。師は3年かけて探せとか最初の5年は何習っても変わらないとか、そのような文言をどこかで見たけれど、つまり、学ぶべき基本功を提示してくれる師匠を見つけて5年はまともにやってみな、話はそれからだ、って感じだろうか。そりゃそうだとは思う。でも結局はそれが難しい。基本をちゃんと5年やるってのはそんなに簡単なことじゃない。試行錯誤や改善などを行いながら正しく基本を積み続けるってのは、そんなに簡単ではない。

 なんか子供の頃に漫画の書き方の本を読んでいて、空山基っていうイラストレーターが言ってたんだけど、川を渡らなきゃならないって思ってるやつは何も知らなくても結局はがむしゃらにでも川を渡る、渡れないやつはどんなに知識があっても一生渡れない、ただそれだけのこと、みたいなことを言っていて(めちゃくちゃうろ覚えだから全然違うかもしれない)、当時は子供心に、そりゃ残酷だなって思った。つーか漫画のハウツー本でそんなこと言うなよって。同時に、子供心にも、僕は渡れない側かもなってぼんやりと思った。だからこそ、高校生のときにネットで、同い年なのにイラストレーターとして活動してるやつを見かけたときはすげーなって思ったんだよね。あぁもうこいつは渡ってる、というか泳ぎ続けてるんだなって。まぁメンタル爆発してすげー自虐と毒だらけのブログ書いてて面白かったけど。僕はそいつの真似をすることにして、同じように自虐と毒だらけの日記を書いたよね。文体模写みたいな感じ。いや、昨今の僕が書いてるクソ文章とは全然違う。もっと血反吐吐きながら毎日徹夜して絵描くの楽しい絵描くの楽しいって言い聞かせ続けてる感じの、自家中毒型の症例だったね。最初から最後まで自分との戦いしかしてない子だったよ。イラストの方はあんまり真似しなかったね。ブログを真似してたね。いったい高校生の頃の僕は何をしてたんだろうな。

 なんかよくわからんけど、僕は他人との競争に長けてる人よりも、一生自分との戦いを続けてる人の方を尊敬しちゃうんだよな。勝手に傷だらけになって勝手に強くなって勝手に一人で変な景色を見に行く人たち。僕はそういう人たちが好きだし僕もそうなりたいって子供の頃からずっと思ってた。別に友達になる気はないし同じ景色を見に行くつもりもない。単に応援してるってだけ。それに、僕もそういう人になりたいと思ってもそう簡単になれるわけじゃない。難しいね。

 方向性が違うだけで結局はアホみたいな文章書いてるんだよな。